本物の気功にふれて

悩める現代人に必須。癒しの気功についての私の体験。

そもそも何故に気功?

そもそもだけど、何故に自分は気功を瞑想をやろうと思ったのか?
 
原点というかきっかけは、ずっと子供のころに見たヒーローものの「レインボーマン」だ。
「インドの山奥で修行をしてダイバダッタの魂宿し・・」の主題歌で私は、ヒーローものの中でも最も好きであった。
その主人公が、インドに行ってヨガの達人ダイバダッタの元で修行をしてレインボーマンになり悪の集団と戦うのであるが、この作品でヨガというのを初めて知った。
本当にヨガというものが、あるのか、何なのかわからなかったけれど、インドに行って修行をすればレインボーマンの様になれんじゃないかって思った記憶がある。
 
その頃、ヒーローものは、修行してなるというのはあまりなかった様な気がする。
仮面ライダーにしたって勝手に改造されてなったわけだし、ウルトラマンは宇宙から来るわけだし、忍者ものの赤影やライオン丸は修行したのかな?
ちょっと忘れたが、とにかく他のものと違って「自分も修行という事をすれば。」なんて当時の純真無垢な小学生の私は思っていた。
 
また、ヨガというものが、何か神秘的な秘法という感じで、ずっと後を引いていて、16の時に名古屋の藤本憲幸先生(まだ健在だと思われるが日本にヨガを流行させた立役者の一人。)のところへ半年くらい居候をしたりして、あこがれのヨガの修行(真似事だが)をした。
まあ、ヒーローや超人になる夢は、さすがに現実がわかる年にはなっていたわけだが、それでも別の意味で変身という事をしたかった気がする。
 
その後に気功もブームになり、自分の中では、ヨガも気功も大差なかった。
ただ、現在のブームのヨガはファッションであって、かつてのエアロビクスダンスやジャズダンスと一緒で、ただの流行りものと感じる。
気功も流行り廃れはあったけれど、気功は、見かけより中身が重要であり、いかに気感を感じられるかから入るというところが、面白さでもあり、重要なところだ。
 
思えばもう、それから40年が過ぎたが、いまだに人間の中身自体は、変わらないのか、いろいろな意味で変身願望(霊的な超越とか解脱とか)がある。
それがいまだに気功や瞑想に興味をそそられるということの原点のようだ。
 
まあそれが、長い年月、何ら進歩も成長もなかったという事なのかもしれない。
でも、今生には、進歩できなくても来生が来るのであれば、その時にはジャンプ出来る様に、せめて準備となるくらいの事はやっておこうとモチベーションを保っている。
 

ここのところ、読書にいそしんでいた。

ここのところ、読書にいそしんでいた。
 
何か精神的な支柱の様なものがないと、いつも心は忙しく動き回り、本当に「落ち着く」という事がない。
それは、わかっている。
そう、わかっていて中々どうして心ってやつは、相変わらず、落ち着かない。
 
ある意味、色んな事で毎日忙しい時の方が、心ってやつを意識しないですむ。
誰かが言っていた「心を無とか空とか言うけれど、本当にそうなれるのは、棺桶に入ってからだ。」と。
非常にもっともな納得出来る、ご意見ではある。
でも、その状態は、アーカホリック、まあ、中毒状態だ。
 
禅問答の様なものだけど、心を意識しながら、意識しない。
よく聞く事だけど「今、ここ」にただ在る。
そう、「レット・イット・ビー」だ。
 
瞑想は、つまるとこ、その状態になる為(在る為)に行うことでしょう。
気功もヨガも瞑想。動きのあるものも、ないものも、目指すところは同じ。
でも、その目指すべき事が、曖昧になり、目指す手段が、目的化していては本末転倒だ。
何か最近、その事象が自分に起きてる感じだ。
 
毎日、必ず、気功を行う。
その事が、だんだんノルマ化してきてる。
そうなると心っていうのは、漂いだす。
特に時間が無い時は、気功をしながら心ここにあらずといった感じで何のため・・・?。
そうなんだよね。
今一度、その点を見直さないと、単なる健康体操でしかなくなる。
 
でも、ここでノルマ化はいかんと、気功自体を中断してしまっては元の木阿弥。
今までも繰り返してきたが、1日休むと2日休み3日休み。そのうち「やーめた」となってしまう。
だからノルマ化しても、とにかく続ける事が肝要だと思う。
その上で「なぜ」を見直さんといかんね。
 
そこで読書となるわけだが、中健次郎先生が推薦していた「虹と水晶」というチベットのゾクチェンの教えを題材にした本を読んでみた。が、正直、今の私には難解だ。
未だ、これを理解出来るステージには無いようだ。
もうひとつ、「アナスタシア」という結構有名な本らしいのだが、今回初めて読んでみたが、こちらには、はまってしまった。
この「アナスタシア」については、おいおい感想を書きたいが、真実なのかファンタジーなのか?
でも、なるほど通常の思考ではなかなか考えつかない様な事が書かれていて、もし、作者の創作とするなら、この作者こそ只者ではない。まだ2巻目を読み終わったばかりだが、日本では7巻が出ている様なので楽しみだ。
 
生きる意味、仕事をする意味、気功なり瞑想をする意味。感じられればなあ。
 

気感、気のボール、そしてカメハメハ

気功の根本は気を通す事。
気を出したり入れたり、広げたり縮めたり、といった気をコントロール出来る様になる事を目的にしているわけだ。
 
気というものは、そもそもエネルギーであって形のないものだからコントロールするには、気功の体操的な部分と気をイメージする事がとても重要となるわけだ。
 
イメージ、想像力、というのは、これがなかなか難しいのでひと工夫必要なようだ。
 
よく気功の講義や本には、気のボールというのが出てくる。
手と手を合わせてその間に気のボールがある事をイメージする。
これを広げたり縮めたり投げたり受け取ったり、この手の間の気感というものを大事にしながら動かすという事である。
また、この気のボールを体に通すという事をする。
頭の上から下に下から上に、前から後ろに、右から左に左から右にと。
 
実際、自分もこの気感というものが、しっかりと感じられる様になってきた。
確かなものとして感じられる様になりつつある。
これで自由自在にコントロール出来れば、やがては、ドラゴンボールのカメハメハも夢ではないのかもしれない(?)
 
ドラゴンボールで思い出したが、そもそもサイヤ人のパワーの源はシッポであり、それが、また弱点でもあったのだが。
そして気功でも尾骨がとても重要視されている。
実際、気功を行う時にシッポがあるとイメージするとやりやすいところが結構ある。
そして何故か、シッポをイメージして動くとちょっと楽しいのだ。
 
作家の鳥山明という人は結構まじめに、気功も研究されていたんじゃないのかな?
そういえば、中健次郎先生の中国での先生の写真を見せてもらったが、まさに亀仙人そのものであった。
中先生は亀仙人のモデルだと思うといっていたが。
 
まあ、想像をたくましくしても悪いことは、なかろう。
孫悟空を目標にして修行に励むのもいいのかも・・・。

食事について

日々の練功はかろうじて続けられているが、食事についは、全く元に戻ってしまっている。
 
気功の合宿では、ほぼ完全なベジタリアンの食事で4泊5日を過ごしたが、帰って来ると、もう早速の肉食の復活であった。
まあ、ベジタリアンになろうと思っているわけではないが、ここのところ、あまり注意を払って来なかった「食べる事」についても少々考えさせられたのだが。
 
過去に数日から一週間程度の断食は何度かしたことがあり、食べない事で体も頭も調子が良くなることは体験していた。
元来、あまり頭の方は良くはないが、断食4日目あたりから、頭が冴えて記憶力がググーっとアップした。
新聞や週刊誌の記事を読むそばから暗記してしまったり、初めて聞いた曲を歌えたり、正直、自分が天才に変身したのかと思った。
また、3日目あたりまでは、食欲との格闘で逆にだるい感じだったものが、食欲が、収まってくると体が急に軽くなった感じがしたのを覚えている。
ただ、これらは残念ながら復食し始めたら、あっという間に元にもどってしまったが・・。
 
今回、日々の練功は続けていても、やはり、食事にも気を使わないと進歩が鈍いのでは?と感じているところだ。
小食の日は翌日の目覚めはいいし、遅い時間に食事をすると、翌日は怠い気がする。
量だけではなく、内容も、やっぱり肉ガッツリよりは、肉少々野菜ガッツリの方が、体も軽い気がする。
また、昔からコーヒー牛乳が大好きで、ほぼ毎日1ℓ以上は飲んでいる。
乳製品は、他にはあまり摂らないし炭酸飲料も最近は、ほとんど飲まないけれど、コーヒー牛乳だけはなかなかやめられない。
ただ、これを2日くらい飲まないと効果てきめんに腸の調子がいい。これは前から分かっていた事なんだが、なかなかねえ。
 
何かをやる。事より、何かをやめる事のほうが難しい。
これが食べる事の見直しとなると、ホントなかなかどうして・・。
 
やはり、娑婆に出ると、思う様にいかない事が多々ある。 
 
 
 
 
 
 
中健次郎先生公認・ェイスブック・グループ