本物の気功にふれて

悩める現代人に必須。癒しの気功についての私の体験。

OSHOの瞑想を久々にやってみた。

気功修養ではないが、
 
OSHOの瞑想を久々にやってみた。
OSHOの瞑想は、一時期、結構熱心にやっていた。
 
その中で、クンダリニー瞑想とナーダブラーマ瞑想を好んで行っていた。
クンダリニー瞑想とナーダブラーマ瞑想については、まあ、家でも出来るし自分に相性がよく思えたので毎日ではないが、折に触れて行っていた。
 
正直な話、OSHOの瞑想については不満もあった。
個々の瞑想についての説明が、非常にあっさりとしている点である。
 
クンダリニー瞑想でいえば、15分「ゆったりと足からエネルギーが昇ってくるのを感じながら、全身を震えるがままにします。あらゆるところへと動くにまかせ、震えそのものになりましょう。目はあけていても閉じていてもかまいません。」(オレンジ・ブックより)そしてダンス、静止と続いくわけだが、そのメインの、震わすステージが、この説明だけでは正直あまりピンと来なかった。
 
今回、気功の合宿で尾骨の重要性をあらためて認識したのだが、ふと思ってクンダリニー瞑想の「震わす」ステージで尾骨に意識を持っていき、架空のシッポを震わす様なイメージで全身を震わせてみた。
すると、どうだろう。何となく楽しいのだ。続いて行うダンスも静止のステージでも。
今までは頭の中は雑念妄想で賑わっていて、瞑想という感じにはあまり入っていけなかったのだが、今回は割と意識がクリアな感じで時間が過ぎるのも早く感じた。
毎回、こうなるかは、わからないが今回は、とてもいい感じであった。
 
OSHOは、勝手に変えてはいけないという事をいっていたと思うが、自分自身の感触に素直になって、このやり方をしようと思う。
クンダリニー瞑想というのだからクンダリニーの開発を目的にしているわけだし、クンダリニーは尾てい骨に眠っているのだから、何ら矛盾はないわけだ。
 
OSHOがマスターである事は、何ら、疑うものでもない。
ただ、盲目的にOSHOの瞑想をやっていても正直、実りある果実は、得られないのではないか?
 
まあ、自分自身、何をめざしているのか?
まずは、その目的が、ハッキリさせるのを目指しているという事なんだが。
 
 
 
中健次郎先生公認・フェイスブック公開グループ