本物の気功にふれて

悩める現代人に必須。癒しの気功についての私の体験。

ここのところ、読書にいそしんでいた。

ここのところ、読書にいそしんでいた。
 
何か精神的な支柱の様なものがないと、いつも心は忙しく動き回り、本当に「落ち着く」という事がない。
それは、わかっている。
そう、わかっていて中々どうして心ってやつは、相変わらず、落ち着かない。
 
ある意味、色んな事で毎日忙しい時の方が、心ってやつを意識しないですむ。
誰かが言っていた「心を無とか空とか言うけれど、本当にそうなれるのは、棺桶に入ってからだ。」と。
非常にもっともな納得出来る、ご意見ではある。
でも、その状態は、アーカホリック、まあ、中毒状態だ。
 
禅問答の様なものだけど、心を意識しながら、意識しない。
よく聞く事だけど「今、ここ」にただ在る。
そう、「レット・イット・ビー」だ。
 
瞑想は、つまるとこ、その状態になる為(在る為)に行うことでしょう。
気功もヨガも瞑想。動きのあるものも、ないものも、目指すところは同じ。
でも、その目指すべき事が、曖昧になり、目指す手段が、目的化していては本末転倒だ。
何か最近、その事象が自分に起きてる感じだ。
 
毎日、必ず、気功を行う。
その事が、だんだんノルマ化してきてる。
そうなると心っていうのは、漂いだす。
特に時間が無い時は、気功をしながら心ここにあらずといった感じで何のため・・・?。
そうなんだよね。
今一度、その点を見直さないと、単なる健康体操でしかなくなる。
 
でも、ここでノルマ化はいかんと、気功自体を中断してしまっては元の木阿弥。
今までも繰り返してきたが、1日休むと2日休み3日休み。そのうち「やーめた」となってしまう。
だからノルマ化しても、とにかく続ける事が肝要だと思う。
その上で「なぜ」を見直さんといかんね。
 
そこで読書となるわけだが、中健次郎先生が推薦していた「虹と水晶」というチベットのゾクチェンの教えを題材にした本を読んでみた。が、正直、今の私には難解だ。
未だ、これを理解出来るステージには無いようだ。
もうひとつ、「アナスタシア」という結構有名な本らしいのだが、今回初めて読んでみたが、こちらには、はまってしまった。
この「アナスタシア」については、おいおい感想を書きたいが、真実なのかファンタジーなのか?
でも、なるほど通常の思考ではなかなか考えつかない様な事が書かれていて、もし、作者の創作とするなら、この作者こそ只者ではない。まだ2巻目を読み終わったばかりだが、日本では7巻が出ている様なので楽しみだ。
 
生きる意味、仕事をする意味、気功なり瞑想をする意味。感じられればなあ。